■件名:[東京有恒会リレーマガジンNo.18] 1990年(平成2年)文学部卒 反面教師か参考資料か~或るド阿呆の半生
■配信数:544通 ■予約時刻:2018-11-03 11:00:00 リレーマガジンご購読ありがとうございます。 投稿者との交流もFacebookやメールを通じて活発になってきました。 ITミニ勉強会は出張勉強会も開催します。 会社の会議室など会場をご提供いただけるようであれば ご連絡よろしくお願いします。 さて、今回は、リレーマガジンNo.2でもご紹介した 東京有恒会幹事の1990年(平成2年)文学部卒 北野 好浩(きたの よしひろ)さん。 先日のアンカンファレンスでお話しいただいた内容をご紹介します。 ============================================= [NO.18] 北野 好浩(きたの よしひろ) テーマ:「反面教師か参考資料か~或るド阿呆の半生」 私は、1990年(平成2年)に文学部の史学地理学科を卒業しました。 この市大を卒業できたことは、私のこれまで経歴の中で、唯一輝かしい部分です。 言い換えれば、それ以外は浮き沈みの激しい人生を送ってきたわけです。 私の経験を参考資料とするか反面教師とするか、 皆さんの自由にお任せするところでありますが、 しばらくの間お付き合いください。 現在51歳の私の人生で、本格的に浮き沈みが激しくなったのは 40代に入ってからのことですが、 その前兆は大学受験生だった高校3年生の終わりの頃まで遡ります。 1985年の1月の終わり頃、大阪府立鳳高校に通っていた私は、 一次試験が終わり、二次試験に出願するのに、 受験校を市大にするか府大にするかで迷っていました。 私の第一志望は、当然市大であり、 専攻したい地理学も当時の府大になかったものですから、 何としても市大に行きたいと思っていました。 しかし、一次試験の私の成績では、府大が合格圏で、 市大は合格に程遠い状況でした。 更に、両親は、落ちた時には予備校に行かせるようなお金はないと言っています。 市大がだんだん遠くなってゆく・・・ 私のそんな状況を知ったクラス担任の先生は、とうとう私にこう指示しました。 「市大を受けろ。落ちたら自宅浪人したらいい。お前ならできる」 この一言で、私は市大を受ける決心をしました。 そして、結果は・・・残念ながら不合格となり、自宅浪人が現実のものとなりました。 こうして、本当に宅浪生となった私は、自分で時間割を組み、 通信教育をペースメーカーにして受験勉強に励みました。 1年後、自宅浪人をしながら成績を上げた私は、市大に合格するのです。 これが、無茶をして事を成した最初の出来事となりました。 さて、希望に満ちて入学した市大は、希望通りに地理学の専攻をして 無事に4年で卒業し、売り上げが年間1,000億円クラスの 東証1部上場の建設会社に就職しました。 当時はバブルでしたから、周り、特に私の両親は一生安泰の人生を 手に入れてくれたと思ったのです。 ところが、程なくバブルは崩壊し、私は26歳の時に、 大阪から名古屋へ転勤となり、結婚はするものの、 やがてボーナスも削られて生活が苦しくなりました。 名古屋に転勤してから7年半たった2000年秋、経営が苦しくなった建設会社は、 私に大手不動産会社への出向を命じます。33歳の時でした。 私はこの時に、今の住まいのある東京に転勤するのです。 出向は1年半ほどで、建設会社に戻ったときには不景気は更にひどくなっていました。 労働組合での活動に参加もしましたが、会社の業績は悪化するばかりでした。 そんなことが数年続いていましたが、それとは別に インターネットを通じた社外活動も始めていました。 そして2007年の40歳の時、私はインターネットで知り合った人から ベンチャー系企業の仕事に誘われます。 冒頭で申し上げた通り、浮き沈みが激しくなったのはこのとき、この40歳からです。 私は、今となってはベンチャーの仕事のことはよく思い出せません。 早く建設会社の不景気の悪夢から逃れたいという思いだけで必死でした。 ただ、最初は悪くなく、不安定ながらもそこそこ売り上げていたことを覚えています。 ベンチャー企業とは別に、新しい会社も作って、 私はその新しい会社の代表になったりもしました。 しかし、それも長続きはしませんでした。 ちょうどその頃、時期で言えば2008年、 建設会社の出向先の大手不動産会社で知り合った人から電話がありました。 その方は、不動産会社をやめて小さなマンション管理会社に転職していました。 私に分譲マンションの管理の仕事を一緒にやらないかと、誘ってきたのです。 生活が楽でない私は、二つ返事でその仕事にも携わることにしました。 これで私は、ベンチャー企業とマンション管理会社勤めの「二足の草鞋」となりました。 2009年のある日、私が42歳の時ですが、ベンチャー企業の代表になっていた人が、 メンバーで出し合った出資金を持ち逃げし、その後、自己破産しました。 あっという間に財産は無くなり、私の手元には借金と、私が代表になった会社だけが残りました。 私の会社は、ポイントカードの作成事業で売上をしていましたが、 それだけでは足らず、マンション管理の仕事もしながら、 借金の返済に向かってひたすら働き続けました。 2015年の春、48歳になった私は、借金はほぼ返済していました。 ただ相変わらず、自分の会社の売り上げでは生活ができないので、 マンション管理の仕事にも力を入れていました。 そのマンション管理の仕事では、 管理業務主任者という国家資格も取得しました。 また、別の仕事では、業務請負で経理の仕事を手伝うようになり、 今度は「三足の草鞋」として仕事が増え、 ようやく仕事にも光が燦々と差し込んできました。 ・・・これで生活はかなり楽になる。 未来の勘定書きを照らして計算すると、 2015年夏には相当楽になる結果が見えてきたのです。 2015年5月18日の早朝、のどが渇いた私は、 台所でお茶を飲んで寝室に戻る途中、激しいめまいに襲われました。 いつもであればすぐに元に戻るのに、 このときは戻るどころかだんだんと強くなり、 やがて立っていられなくなりました。 這いながらも何とか布団に戻り、横で寝ていた妻を起こし、 救急車を呼ぶように言おうとしましたが、 既に言葉も発せられなくなっており、 奇声を上げる私に気付いた妻がただ事ではないと察知して救急車を呼んだのです。 私は病院に運ばれ、すぐに全身が管だらけになってしまったのを覚えています。 そのうちに意識が薄れていき、私の人生はこれで終わったと感じました。 翌朝遅く、目を覚ました私は集中治療室にいました。 昨夜、運び込まれて治療を受けた部屋です。 体は、全身が管だらけの姿のままでした。 暫くすると、看護師が3人ばかりやってきて、私のベッドを移動し始めました。 私は、頭にメスを入れる手術が始まるのだと思いました。 しかし、運び込まれた部屋は、4人部屋の病室でした。 取りあえず、命だけは助かったと思ったものです。 私の診断結果は、脳出血でした。 体の右半分が麻痺しており、上体も起こせない状況にありました。 体の自由がほとんどきかない中で、私は一生寝たきりになるのだと覚悟しました。 そうこう思っているうちにリハビリが始まりました。 わけの分からないままに、私は理学療法士のされるがままになっていました。 それからは、明けても暮れてもリハビリの日々。 最初は、もしかしたら、すぐに治るんじゃないかと思いましたが、 これはさすがに甘かった。 入院してから3ヶ月ほどは、車椅子でした。 トイレを行くにも付き添いがいなければなりませんし、 排泄もその人と一緒にしなければなりません。 4ヶ月が過ぎた頃にようやく杖を持って立てるようになり、 5か月で退院するのですが、 3年がたった今でも、体の麻痺は残っていまして、 自分の意志では右手の指は全く動かすことができないし、 また、走ることもできません。 入院してから5か月後には退院できましたが 、以来、今に至るまでずっとリハビリの日々です。 この先いつまでこの状態が続くのか、 まったく分からずに毎日を過ごしている、というのが現実です。 私は、若い頃から今に至るまで、波乱の多い人生を歩んできました。 大学入試で無茶をしたとか、ベンチャーに手を出したとか、 お金を持ち逃げされたとか、この程度はまだまだ序の口です。 やっとの思いでピンチから脱出しかけた時に、 今度は長期の後遺症付きの病気にかかってしまうとは、 こんな運命を、一体だれが想像できたでしょうか。 今から思えば、自覚症状がないからといって、 血圧の高い状態をほったらかしにしていたということがあります。 病気になる前、最高血圧は150を超えていました。 この時点で、頭の血管はいつ切れてもおかしくなかったのです。 もっと早く治療をするべきだったと思います。 皆さんの中には、血圧が高めの方はいらっしゃるでしょうか。 最高血圧が150を超えてる、なんて方は、今すぐに病院に行ってください。 放っておくと、私のようになりますよ。 この後遺症の苦しみは、本当にシャレになりませんから。 私は、右の指が動かないので、趣味である一眼レフのカメラで写真を撮ることは、 シャッターボタンが押せず、続けられなくなりました。 排泄も、健常者ほどうまくできないので、 大人のオムツの一種であるリハビリパンツを着用しています。 クルマの免許証も更新ができず(これは人によるらしいですが)、返納しました。 右手で食事もできず、字も書けず、左手できるように特訓したのですが、 利き手の右手ほど上手にすることができず、 何のための特訓だろうと考えると虚しくなる時もあります。 何と言っても、病気によって今までの人生が変わってしまったのですから。 そんなことで落ち込みながらも、一方では命拾いをしたといい方に考え、 この状態でできる範囲のことをしています。 今は、「二足の草鞋」時代に覚えた、 分譲マンションの管理の仕事をする会社を経営しています。 病気になったときは、またどん底かと思いましたが、 何とか回復することができ、ご飯は食べていけています。 次は、このマンション管理会社の経営で、一花咲かせたいですね。 我が家には、子供たちが二人いるのですが、上の息子は医学生、 下の娘はこれから大学受験ということで、 父親としてもどっしりと腰を据えなければならず、 そろそろ「ド阿呆な」人生の流れに、終止符を打たなあかんなあと思っています。 ところで、経営と言えば、私には、市大のOBの中で尊敬し、 この人のことは絶対に忘れてはならないという人がいます。 ユニ・チャームの創業者である、先日亡くなられた高原慶一朗大先輩です。 高原大先輩は、私が学生時代に所属していた、写真部の創設者でもあります。 私は、脳出血の後遺症に悩まされるようになってから、 リハビリパンツを履くようになりましたが、 そのメーカーは当然、・・・ ユニ・チャームです。 北野 好浩(きたの よしひろ) 1990年 文学部 史学地理学科(地理学専攻)卒 1967年 3月 大阪府高石市生まれ 1985年 3月 大阪府立鳳高等学校卒業 1990年 3月 大阪市立大学 文学部 史学地理学科卒業 1990年 4月 某東証一部上場ゼネコンに入社 転勤で大阪、名古屋を経て現在の居住地・東京に至る。 2007年 3月 ゼネコンを退社、ベンチャービジネスに参画 この間、マンション管理業への参加、ベンチャー事業の破綻等を経験。 2015年 5月 脳出血を発症、5か月間入院。右半身が不自由になる。 2017年12月 東京都練馬区でマンション管理会社を起業、現在に至る。 起業した会社は「澄住サポート株式会社」です。 ホームページもご覧ください。 http://sumizumi.co.jp/ https://www.facebook.com/yoshihiro.kitano.37 ============================================= 編集後記 ============================================= 急に寒くなって体調を崩しがちですね。 風邪をひかないよう気を付けましょう! 次回のITミニ勉強会は9日です。 どうぞ参加ください。 出欠連絡フォーム: https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=Evqrhpm このリレーマガジンへのご感想、投稿、お問い合わせは、このメールに返信して ご連絡ください。 ------------------------------------ 大阪市立大学全学同窓会東京支部「東京有恒会」 https://tokyoyukokai.weebly.com/ http://tokyo.ocu-yukokai.com (旧) リレーマガジンバックナンバー https://tokyoyukokai.weebly.com/relaymagazine リレーマガジンは、皆様からの感想および投稿をお待ちしています。 このリレーマガジンに返信してご連絡ください。 東京有恒会Facebookグループ https://www.facebook.com/groups/OCU.tokyoyukokai/ Facebookへのログイン(ご参加)が必要です。 ------------------------------------ 配信解除URL http://1lejend.com/d.php?t=###tourokuid###&m=###mail### ------------------------------------ 大阪市立大学全学同窓会東京支部「東京有恒会」事務局 担当:こんま [email protected]
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